一九四五年八月六日、午前八時十五分。
爆心地から一・三キロ。
十八歳の若い教師は、あの日を生き延びた。
これは、原爆で母と姉を奪われながらも懸命に生き、 九十歳を越えてなお自らの言葉で「あの日」を語り遺した、 一人の広島の女性、九十八年の生涯の記録です。
1945年当時、英子は18歳。観音国民学校の教職員として働いていました。 戦争末期、空襲に備えて授業は学校ではなく地域のお寺などに分かれて行われており、 8月6日の朝も、英子は西観音町のお寺で分散授業の準備をしていました。
午前8時15分。爆心地からわずか1.3キロの地点で、英子は閃光と爆風に襲われます。 身体ごと吹き飛ばされ、大けがを負いながらも、奇跡的に一命をとりとめました。
英子は試験検定に合格し、1944(昭和19)年3月31日、17歳になったばかりの春に 国民学校教員免許状を取得しました。同年10月31日、広島市観音国民学校の訓導(教員)を命じられます。 原爆が投下される、わずか9か月余り前のことでした。
当時の辞令や免許状は、80年を経た今も家族の手で大切に保管されています。 旧姓「木枯英子(こがらし ひでこ)」の名が墨で記されています。
英子の実家は、爆心地からわずか500メートルほどの中町2番地にありました。 原爆は、彼女自身の身体だけでなく、家族の命を次々と奪っていきました。
戦後、英子は結婚し、家庭を築きました。原爆にすべてを奪われながらも、 新しい家族とともに歩んだ日々が、写真に残されています。
英子は晩年、自らの被爆体験を公の記録として語り遺すことを選びました。 その言葉は今、誰でも聴くこと・読むことができます。
広島平和記念資料館により、英子の証言ビデオが収録されました(識別コード VS01053・日本語/英語字幕付き)。「あの日」の体験が、本人の言葉で語られています。
証言ビデオの資料ページへ家族の手によって、英子の語りが録音として残されています。孫たちが受け継ぐ、かけがえのない肉声の記録です。
孫・寺澤潤哉の手を通じて、英子の被爆体験記が国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に寄稿されました。 現在、同館には英子の名前と遺影が登録され、体験記は以下の記録集に収められています。
・『被爆体験記集 被爆地別 五十音別』第66巻 93ページ
・『平成27年度 被爆体験記 厚生労働省収集(暫定公開)』第21巻
・『平成30年度執筆補助事業「被爆体験記集Ⅰ」』73〜85ページ
英子の孫・寺澤潤哉は被爆三世として、宮島でゲストハウス「三國屋」を営みながら、 世界中から訪れるゲストとともに平和について考える活動を続けています。
英子はいま、比治山のふもとにある法正寺に眠っています。その墓石には「三國屋」という屋号が刻まれています。先祖はかつてこの屋号で何かの商いをしていたようですが、原爆によって資料のすべてが失われ、どんな商売だったのかを知る手がかりは残されていません。
「三国」とは、天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の三つの国のこと。仏教が日本へ伝わってきた道筋にあたるこの三国で、かつての日本人は「全世界」を思い描きました。説話集『今昔物語集』が天竺・震旦・本朝の三部で構成され、「三国一」が「世界一」を意味したように、この言葉には当時の人々にとっての世界のすべてが込められています。
私たちはこの先祖の屋号を受け継ぎ、「三國屋」の名で宿を営むことにしました。屋号に込められた世界へのまなざしと、世界中からお客様をお迎えしたいという私たちの想い。ふたつの想いを重ねて、今日も宮島で灯りをともしています。
三國屋の「織り鶴プロジェクト」では、ゲストが平和への願いを込めて折った鶴を千羽集め、 平和記念公園の「原爆の子の像」に捧げています。その原点には、祖母・英子の体験があります。
三國屋を訪れるゲストの多くは、厳島神社とあわせて原爆ドームも訪れます。ふたつは1996年に同じ年に世界文化遺産に登録されましたが、両者を結ぶ物語はこれまでありませんでした。二つの世界遺産を慌ただしく巡るだけで終わらせず、宮島で鶴を折りながら広島に想いを馳せ、平和について考えを深める時間をつくりたい――それがこのプロジェクトの出発点です。鶴を折る時間には、被爆三世である潤哉が、祖母・英子の体験を参加者と分かち合います。
平和記念公園の「原爆の子の像」には、いまも世界中から折り鶴が届き続けています。一羽一羽に人々の想いがこもった折り鶴は、簡単に処分することができず、その行き先は長いあいだ課題となってきました。広島市も折り鶴の再生に力を入れており、卒業証書の用紙などに生まれ変わらせる取り組みが広がっています。
このプロジェクトでは、ゲストやスタッフ、地域の人々とともに折った鶴を千羽集め、原爆の子の像に捧げます。一定期間飾られたのち、想いを昇華させるために解体し、再生へ。解体作業は、週に一度三國屋で職場体験をしている「日本ダウン症協会広島支部えんぜるふぃっしゅ」の子どもたちと行います。再生できる鶴は再生糸となり、三國屋のシーツを洗濯している宮島の「宮島白栄舎」と共同でつくったオリジナルハンカチに生まれ変わります。願いごとが書かれた鶴は、インクがにじむため再生できません。それでも処分はせず、毎年1月に宮島で行われる「とんど」でお焚き上げをし、込められた想いを天へ届けます。売上の一部は平和活動に寄付されます。
この解体のご縁は、英子にもつながっています。ともに作業をする世子さんのお祖母様は英子の知り合いで、世子さんのお母様は英子の娘の家庭教師でした。「旅をする人が増えれば、世界は平和に近づいていく」――土地を知り、対話を通して異なる文化や考えに触れることが、平和への一歩になる。その信念が、宮島の仲間たちと続けるこのプロジェクトを支えています。
コロナ禍のさなか、三國屋にたまたま泊まったお客様は、学校の先生でした。潤哉が祖母・英子の被爆体験を話すと、後日、先生のクラスの生徒たちが平和への願いを込めて鶴を折り、「和」の一文字をかたどった額にして三國屋へ送り届けてくれました。
潤哉はその折り鶴を英子に見せ、生徒たちの想いを平和記念公園へ届けました。ひとつの出会いから生まれた小さな平和のバトン。それは、いまの織り鶴プロジェクトへとつながっています。
また、潤哉は広島平和記念公園を案内するガイド動画を制作し、 祖母から受け取った記憶を、次の世代と世界へ発信しています。